1876年(明治9年)福島県で生まれました。
子供のときにその左手に大やけどを負いながらもハンデを克服し、医学者を目指し「志を得ざれば再びこの地を踏まず」という強い決意の元、ふるさとを旅立ち不眠不休の精神で研究にうちこんでいた野口英世博士は、1928年(昭和3年)アフリカのアクラで帰らぬ人となりました。
彼は黄熱病の原因を追っていたのです。
野口英世のどの伝記を見ても、彼の死因は黄熱病にかかったことによるものだと書かれています。
彼の解剖を行った際にも、黄熱病だと断定されていますし、保管されている肝臓の様子からもそれは間違いないそうです。
しかし、それでも彼の死には他の何かが関係しているという見方もあるのです。
彼の死は事故だった?
野口英世がアクラにいたとき、黄熱病は流行していなかったといいます。
また彼が黄熱病に罹患したと思われるのは、ナイジェリアのラゴスでした。
ここでも黄熱病は流行っていなかったそうです。
では、なぜ野口英世は黄熱病に罹ってしまったのでしょう。
ここでひとつ考えられることは、彼が黄熱病の研究中に何か突発的なことが起きていたのではないかというのです。
彼は黄熱病の病原体をサルに注射し、その病状を観察していました。
その時サルの血液がついた注射針などで自分を誤ってさしたのではないか、または死んだサルの解剖中にメスで自分を傷つけたのではないかという想像ができます。
そう考えると野口博士は実験中の事故が原因で黄熱病に罹患したのではないでしょうか。
研究に研究を重ねてきた野口博士にはあってはならないことですが、なかったとも言い切れませんね。
野口英世は殺された?
野口英世は一度黄熱病に罹っています。
しかしそれは後年になってよく似た症状を持つワイル病だったのだということがわかっています。
彼はワイル病の患者からワクチンを作ることに成功し、これを黄熱病のワクチンだと勘違いしてしまったのです。
1920年頃から野口英世に対する批判がみられるようになります。このため彼は執念を燃やし黄熱病を追い続けたのです。
そんな野口英世の学説を否定するラゴスの研究所を彼が訪問した際に、誰かが黄熱病の病原体を野口に注射したのだという説があります。事実なら意図的な殺人です。
これはあまり考えにくいことだと思います。意見が違うというだけで殺人までするでしょうか?
それに黄熱病の潜伏期間は3日ほどあるのにもかかわらず、野口は2日目に発症しているのです。
ただ、日本から来た男がやたら世界的に有名になりそれを快く思わなかった人物がいたとしたら他殺の確率もゼロとはいえないかもしれませんね。
その死因は黄熱病ではなかった?
また、死因の黄熱病自体を疑う声もあります。
実は梅毒や淋病で死んだのだというのです。確かに野口は梅毒の研究もしていました。おそらくそのことから梅毒が原因だったのだといわれたのでしょう。
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私にはわからない
野口英世は病床で「私にはわからない」とつぶやいたそうです。
それが彼の発した最後の言葉となったのでしたが、いったいどういう気持ちでいったのでしょう。
野口英世は一度黄熱病に罹っていると信じ、そのワクチンを作って自分も接種しています。
それなのになぜ黄熱病に罹ったのかわからないということだったのでしょうか。
事実最初に彼が罹ったのは黄熱病ではなくワイル病だったと思われます。
ですからそのワクチンを打っても、黄熱病に効くはずもなかったのです。
彼の死後、科学の発展とともに精巧な電子顕微鏡が登場し、野口英世の見つけたかった黄熱病の病原体(ウイルス)も断定されました。
もう少しで彼は、その研究に結果を出せたはずだったのです。
「私にはわからない」その想いのまま逝ってしまった野口英世の最後がとても淋しく感じられます。
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