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野口英世の若いころ

 

 

日本で千円札にまで起用された野口英世ですが、彼は生まれた時から「野口英世」だったわけではありません。

 

以外と知らない人も多いんじゃないかと思いますが、それじゃ何故「野口英世」になったのでしょう。

 

戦国時代なんかは幼名があって、元服して名前が変わりますよね。

 

例えば今時の人といえば、真田幸村です。

 

彼は幼名を弁丸といい、成長してからは源次郎信繁という名前でした。

 

幸村はどうも大阪城入城後に名乗った名前のようです。

 

ですから信繁と言った方が良いのかもしれません。

 

信繁と名付けられたのも理由があるのですがここではやめておきましょう。

 

話は戦国時代にそれてしまいましたが、野口英世は明治の生まれです。

 

この時代になっては改名はほとんどなかったと思います。

 

では何故野口英世は改名できたのでしょう。

 

野口清作の誕生

 

彼は、明治9年(1876年)に福島県の猪苗代町で生を受けます。

 

父佐代助、母シカの間に長男として誕生したのです。

 

その子は「野口清作」と名付けられました。

 

清作は幼い時の大やけどをハンデとして抱えていた少年だったことはかなりの人が知っているでしょう。

 

もともと貧乏くさい農家が嫌だった清作少年は学問で身を立てようと考えます。

 

学問と放蕩三昧

 

清作は会陽医院に住み込んで学問に励みました。

 

そしてやがて東京の血脇盛之助と出会い、勉学の場を東京に移し本格的に医師を目指したのです。

 

東京では高山歯科医学院に潜り込むことに成功しますが、参考書を買うお金にも苦労してしまいます。

 

そんな清作が利用したのは恩師の小林でした。

 

学問したいがお金がなくてできないと、その悔しさと惨めさを手紙に書いて借金を請うのでした。

 

小林は将来有望な青年のためにお金をかき集め送ってやります。

 

清作はそのお金で勉学にも励むのですが、気が大きくなるのか遊びにも真剣になります。

 

ついには東京での恩人血脇にも借金を頼み、お金が入ると遊郭へ行ったり飲み歩いたりと全く学問に夢中の時とは別人のようになったようです。

 

そしてまたお金に困れば血脇に泣きつくということを繰り返していたようです。

 

どうしてこんな遊び人にお金を与えるのか理解に苦しみます。

 

よほど彼の有能さと将来性に期待をしていたのでしょうか。

 

「当世書生気質」

 

そんな時猪苗代の恩人小林の妻が重病であるという知らせを受けて、清作は故郷へ帰ります。

 

小林の妻は重い腎臓病でしたが、快方に向かっていました。

 

清作は二週間ほど小林夫人の看病にあたります。

 

そんなとき、たまたま読んだ一冊の本に驚きます。

 

その小説の中には野々口清作という名の医学を目指す書生が登場し、放蕩三昧をつくし破滅するというものでした。

 

それは、坪内逍遥の書いた「当世書生気質」という小説でした。

 

清作と名前もほとんど同じ書生が、借金しまくったあげく破滅するなんて、まるで自分のことを書かれているようで恥ずかしくて、かなりショックを受けたようです。

 

悩んだ清作は小林先生に相談し、新しく「英世」という名前をもらいます。

 

しかし、時代は明治です。

 

改名などはなかなか許されなかったのですが、ずる賢い清作は近くに住む佐藤清作という人物に一時野口家の養子になってもらい、野口清作が二人では紛らわしいという理由をつけて改名に成功するのです。

 

ここで正式に「野口英世」の誕生となるわけですね。

 

たまたま読んだ小説の中に自分の醜態を見た英世だったでしょう。

 

あとで、坪内逍遥に聞くと、野口清作のことなど知りもしなかったそうです。

 

全くの偶然で似たような名前の似たようなずぼらな性格の書生のことを書いただけだそうです。

 

一方で改名までした清作は、借金のことで怒られるよりも、よほどこちらのほうがこたえたのでしょうね。

 

英世にも自分がみっともないという自覚はあったんですね。

 

ほとんどの伝記や文献ではこの説が最も多く理由としてあげられています。

 

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他説

 

貧乏な育ちを子供の頃から惨めに感じていた清作は、自分の生まれを恥じていたとのことです。

 

ですからその卑しい過去を消し去るために改名をしたとの説もあります。

 

貧しい猪苗代の家から東京に出て、医師になるという高い志を持った清作は、生まれ変わりたかったのかもしれませんね。

 

当時医師を目指すとすればお金に困らない裕福な家庭の出身者がほとんどだったでしょう。

 

その中で貧乏で借金王といわれるほどの清作は肩身が狭かったのかもしれませんね。

 

だから野口清作から野口英世になることで過去の自分を葬り去ったのかもしれません。

 

また清作は父親の佐代助が嫌いだっという話もあります。

 

いつもお酒を飲んでいて苦労をしている母親を助けてやらない父親が嫌いだったと。

 

だから親のつけた名前を変えたのだといいます。

 

私はその話はどうかと思います。確かに父親は酒好きでいつも浴びるように飲んでいたようですが、郵便配達の仕事などをサボらずきちんとこなす人だったそうです。

 

清作は父親にそっくりじゃありませんか。

 

学問に夢中になるが、遊びにも真剣になるところなんて父親とどこが違うでしょう。会津の人柄を父親も清作も受け継いでいるのです。

 

やはり父親が嫌いだったというのは、貧しい自分の出身が嫌だったということからきた噂ではないでしょうか。

 

このように野口英世の改名については諸説ありますが、小説が一番のきっかけだったような気がしてなりません。

 

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