野口英世はあの千円札のモデルでもあることは誰でも知っていますね。
あの写真はエクアドルで撮影されたものらしく、英世のお気に入りの一枚でした。
彼は写真に写るとき必ず左手を隠すようにしています。そう、幼い頃負った大やけどの手を人に見せたくなかったのです。
ましてや彼のやけどのことを知らない人にまで写真で知らせる必要はありませんからね。
でも、そのハンデと思われる左手が彼を有名な医学者として育て上げたのだと思います。
1歳の時に負った大やけど
英世の家は貧乏で、父親の佐代助はその頃庄屋のところに奉公していました。
もちろん母親のシカも農作業で忙しい毎日でした。
そんなある日母親のシカが夕飯の支度のため家の外にいました。幼い英世は藁であんだかごにいれて、囲炉裏のそばに寝かせていたのです。
そこなら暖かくて英世は気持ちよく寝ていられると誰でも思うでしょう。母のシカも同じ気持ちだったと思います。
英世の張り裂けんばかりの泣き声を聞くまでは。家の中には祖母もいたようですが、その祖母より早く外から英世のもとへ駆けつけた母が見たのは、燃え盛る囲炉裏の火のなかに転げ落ち、左手をその炎の中で焼かれ、痛みで泣いているわが子の姿でした。
赤ん坊ながらつらい痛みだったでしょう。その姿を目の当たりにした母親の心は気が狂うほどかき乱されたことでしょう。
その頃英世の家の近くには医者がおらず、シカは修験者に見せただけだそうです。
左手はすっかり引っ付いてしまって、右手も中指が少し曲がってしまったそうです。
いじめと劣等感
英世は子供の頃から「手ん棒」と呼ばれ近所の子供たちからかわれていました。
英世は当然落ち込んだでしょうね。母親もそんな息子が不憫だったでしょう。
英世は人と会うことを嫌がりました。
会えばからかわれることがわかっていたからでしょう。
そんな息子に母親は勉強をして身を立てるしかないと励まし続けたそうです。
その甲斐あってか英世の成績はトップクラスだったそうです。息子の将来を案じた母親の気持ちがよくわかります。
いじめに負けず、何よりも自分に負けずに生き抜いてほしかったんだと思います。
英世も貧しい農家のあとを継ぐより勉強して家を出たいと考えていました。
そんな時英世を進学するように導いてくれたのは恩師である小林 栄先生でした。
英世は劣等感から逃れるように一心に勉強し、常にトップを守っていました。
それでも、自由に物もつかめない左手が嫌で、小刀で自分の指を切り離そうとしてまわりにあわてて止められたそうです。はがゆくてたまらなかったんですね。
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転機
英世はそんなつらい思いを作文にしました。
それが小林先生をはじめとした教師や生徒たちの気持ちを動かしたのです。
お金のない貧乏な家に育った英世としては苦肉の策だったのかもしれません。
英世のために寄付金が集められ、左手の手術をすることになったのです。
会陽医院の院長でアメリカ帰りの医師、渡部鼎の執刀でなんとか指を切り離すことに成功し、完全とはいかないまでも何とか物が掴めるようになったのです。
その後英世は教師になろうと考えたそうです。
恩師である小林先生のようになれたらと思ったのですね。でも教師になるには、手術したとはいえまだまだ不自由な左手がハンデとなっていました。
そんな英世に医学の道を薦めたのは小林先生だったようです。
せっかくの優秀な人材にもっと役に立つ人に育ってほしかったのでしょう。
彼は会陽医院の書生となり、医学のほかにドイツ語や英語、フランス語等を必死で勉強したそうです。
その後東京へ出てより勉強に励みました。
ハンデの左手を隠すようにし、懇願する英世の姿はいろいろな人から借金をしたり、住込みで勉強をさせてくれと頼むときには絶対のアイテムでした。だから勉強したのと同じだけ遊んだというのも事実らしいですが。
ただ医師になるための試験に打診があり、その当時の英世の手では無理でした。
ここで東京の恩人である血脇盛之助の援助で、東京帝大の近藤外科医により2度目の手術が行われ無事に医師の試験に合格しました。
ここで医学者野口英世の誕生となるのですね。
彼は幼い頃のやけどというハンデを味方にし見事に貧乏な農家の長男から、有能な医学者へと華麗なる転進を遂げたのです。
すごい知恵と、生命力、そして出世欲だと思います。
もしもあなたに何かハンデがあるとしたら、それを自分の武器にしこの社会の波を乗り切ってみませんか。
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