「野口英世青春通り」の場所と由来
その通りは、会津若松市の中心市街地にあり、国道118号、国道121号、国道401号の西側に並行しており、会津若松市役所付近と会津若松駅付近とを結んでいます。
1992年、野口英世がやけどの手術を受けた会陽医院のあとなどが存在するこの通りを「野口英世青春通り」と名づけました。
野口英世は子供の頃に左手に大やけどを負ったことは皆さんよくご存知だと思います。
その症状はとてもひどいもので、特に親指と人差し指は指を動かす筋まで焼けただれていたそうです。
その手を、当時会陽医院の院長だったアメリカ帰りの医師ドクトル渡部 鼎(わたなべ かなえ)という人が執刀し、やけどでひっついた指を切り離す手術が行われました。
指先はやけどで溶けてしまっていましたが、切り離した指で何とか物を掴むことができるようになりました。
この頃から英世は医学を志すようになりました。
しかし貧乏な家の英世には大学に進むことは無理でした。
そこで恩師である小林栄のアイデアで、会陽医院で働きながら医学を学ぶことになります。
当時会陽医院には数人の書生さんたちがすでにいて、英世一人増えたくらいどうでもなかったようです。
その会陽医院は今では、「野口英世青春館」として喫茶店になっています。
会津若松の繁華街に位置し洋風の二階建てのお店だそうです。
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猛勉強と初恋
野口英世のがんばりはまわりの人が目を見張るようでした。
フランスの軍人であり政治家であったナポレオンの「余に不可能の文字はない」の言葉を座右の銘にし、一日数時間の睡眠しかとらずに勉強に励んでいました。
いくら勉強熱心な人でもそんな睡眠時間だと体内時計がおかしくなって、身体的にも、精神的にもおかしくなりそうですね。
でもこれは事実のようです。
まれにこのような特異体質の人がいるようです。
会陽医院の院長渡部は日清戦争が起こった際、2年間ほど軍医として出征しています。
その留守を任されたのが英世でした。
残った渡部先生の奥さんや愛人の生活を支え、米屋の支払いから女中さんの給料までしっかりとやりくりしていたそうです。
私今さらりと流しましたが、さすがアメリカ帰りのドクトルですね。
愛人さんがいたんですね。
ハイカラです。
ドクトルのことはさておいて、そんな勉強熱心で事務方もしっかりやれる英世でしたが、青春時代です。
そう片思いの恋をしていたのです。
相手は会津女学校に通う山内ヨネという女性でした。
英世は天主教会のフランス人の牧師にフランス語を習っていましたがそこにヨネさんがいたのです。
恋する英世青年は、洗礼を受けてみたりしてヨネさんの気をひこうとします。
なんでも一途に思いを貫こうとする英世です。
ついにヨネさんにラブレターを書きました。
内容は「驚くなかれ、乞う一片の親書発してここに至るを、誰か怪しむ、一縷(いちる)の情」とありました。
なんだこれ?
何を言いたいんだろうと思ってしまいます。
きっとヨネさんもわけわかんないって思ったのでしょう。
学校の先生にこの手紙を見せてしまいます。
大人にはこれがラブレターだとわかったようで、二度とこんな手紙をうちの生徒に渡さないでと教会の牧師を通じてきっぱりと断られました。
英世青年の片思いはここに終わりをつげたのです。
この後、英世は東京へと旅立つのでした。ちょっぴり苦い初恋の思い出をおいて。
このように野口英世が東京へ出るまですごした会津の町は、彼の青春とともに今もなおその名残を惜しむかのように存在しています。
2005年には、街中の賑わいの拠点として「野口英世青春広場」もでき、新たな観光スポットとなっているようです。
1926年(昭和3年)アフリカのアクラで黄熱病のため帰らぬ人となった野口英世は、その死の間際まで、うわごとをつぶやいていたそうです。
この青春通りでともに過ごした人たちの名前を。
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