近代日本の優れた医学者として誰もがその名を知っている野口英世ですか、彼が3度もノーベル賞候補に上がっていたことをご存知でしょうか。
さまざまな研究をし、たくさんの論文を発表した野口英世は、候補にはあがったもののなぜその賞を取る事はできなかったのでしょう。
ノーベル賞とは
この賞は毎年十月中ごろに発表されます。
特に物理学や化学、生理学や医学に対する評価が高く、研究者の目標でもありました。
この賞を創ったのはダイナマイトの発明者であるアルフレッド・ノーベルという人でした。
彼は自分の発明が殺人兵器になると悟ったときかなり苦しんだようですが、平和のためにたくさんの研究者を応援しようと自らの遺産を基金としてノーベル賞が1901年(明治34年)から、優れた研究者たちに贈られるようになったのです。
この賞は3人までという人数に限りがあるそうです。
日本人もたくさんの科学者たちが受賞していますね。
一番最初の日本人の受賞者は湯川秀樹理学博士で1949年(昭和24年)のことでした。最近ではIPS細胞を作った山中伸弥医学博士が皆さんの記憶の中で新しいと思います。
英世が受賞できなかった有力説
野口英世の最初のノミネートは1914年(大正3年)のことでした。このときは60名を超える人たちが候補者に名を連ねていたそうです。
それでも英世は最終選考の11人まで残ったといいます。
英世の研究は、麻痺性痴呆症と脊髄癆(せきずいろう)の患者から梅毒スピロヘーターを世界中で初めて発見し、その純粋培養に成功していました。
これはすごいことです。ノーベル賞に値する貴重な研究といえるでしょう。
しかし、英世は選ばれませんでした。
第一次戦争が勃発し日本人である英世を差別したからだと思われますが、その研究の追試に成功した人がいなかったことから英世の研究を疑問視した面もあったようです。
翌年もノーベル賞の最終選考までいきましたが、これもだめでした。
理由はやはり彼の研究に疑問を抱くものが多かったことがいえるでしょう。
1919年英世はエクアドルで黄熱病の病原体を発見し、そのワクチンまで完成させました。
これはすごいと世界がどよめいたことでしょう。でもやはり決定的な根拠にかけることを理由に受賞できませんでした。
後年わかることですが、このとき英世の発見した病原体はワイル病のもので、そのワクチンもワイル病には効果があったものの黄熱病にはまったく効かなかったのです。
しかし、1919年にはその事実はわかっておらずかなりすばらしい発見だと思われてもおかしくないのですが。
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ノーベル賞を逃したのは総合的な理由?
それはいくつか考えられると思います。
第一には先にもお話したように研究に決定的な根拠がなかったこと。
第二には彼が東洋人であったことがあげられるのではないでしょうか。
事実北里柴三郎はペスト菌の研究に成功しながら、共同研究者であるドイツのベーリングがノーベル賞をとってしまうのです。
愚かな日本は北里の研究を疑い、足を引っ張ってしまいました。
一方ドイツはベーリングの研究に賞賛し彼をノーベル賞に推薦したのです。
北里が賞をとれなかったのはそれ以外にも肌の色の違いが問題視されていたからかもしれません。
第三には、野口英世自身の普段の生活ぶりが「信用」というものを遠ざけてしまったのではないでしょうか。
人に借金し平気で返さないとか、夜な夜な遊びまわっているとか、そういう野口の悪い一面だけを見て判断する人も多かったでしょう。
彼が不眠不休で遊んだ以上に、研究に没頭していたという事実はどこかに忘れ去られていたのだと思います。確かに評判は大切です。
でも彼にお金を貸した人は誰も野口のことを悪く言いません。
それは彼が、人懐っこく大らかで信用に値する人だったからでしょう。
いずれにしても、ノーベル賞を受賞できなかったことは残念ですが、彼の研究は完成されていなかったのですから今となっては仕方のないことですね。
黄熱病の研究には自信のあった野口英世でしたから、彼はもっと成果をあげようと熱くなりました。
しかし、黄熱病を追い続けた結果ついにアフリカのアクラで自らが黄熱病となってその命を落とすことになるのです。
このとき助かっていれば、彼は黄熱病の病原体を新たに確信したでしょうし、ノーベル賞ものの発見になっていたかもしれません。
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