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出生と幼少期

野口英世生家

生まれは1876年(明治9年)11月9日に福島県耶麻郡三ツ和村(現 猪苗代町)で、父 野口佐代助、母 シカの長男でした。

 

清作(せいさく)と名付けられたこの子は1歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大やけどを負いました。

 

しかし生活が貧しかった野口の家では医者に診てもらうこともできず、左手は自由が利かないままでした。

 

母親のシカは自分の油断からこのようなことになったと自分を責め、清作に申し訳なく思ったことでしょう。

 

そんな親心を知ってか知らずか、清作はこんな貧乏な農家を継ぐくらいなら死んだほうがましだと姉に話したそうです。

 

母は左手の不自由な清作には、力仕事の農作業はできないと考えます。その代わり学問で身を立てることを諭したのです。

 

1891年(明治24年)彼の障害をなげく作文が教師や同級生らの同情を誘い、手術のための募金が行われました。

 

確かにハンデを負った清作はいろいろと不自由だったろうし、心無い友達からいじめられたりもしたかもしれません。

 

でも清作はそれをさかてに取ったように自分を悲劇の主人公において同情をかったのです。

 

このことから清作は決して障害に負けてはいない強い少年だったと思います。それと同時にずるがしこささえも感じます。

 

悲劇の清作少年は、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師に手術をしてもらい、不自由ではあったものの何とか左手が使えるようになりました。

 

この時の手術に成功したという思いが彼を医学の道へと導いたといいます。

 

医師への志

 

英世は1896年(明治29年)に恩師である小林栄に40円もの大金を借りて上京しました。

 

しかし、医師になるための筆記試験には合格したものの、放蕩のため2ヶ月で資金が底をついてしまいます。

 

彼は医師を志す気持ちはあったものの、その他のことにも興味を持ち、囲碁や将棋などはいいほうで、ついには歓楽街へ通うようになっていました。

 

恩師から借りたお金で遊びほうけるとはあきれてしまいます。

 

普通偉人と呼ばれる人は、幼い頃からこつこつと辛抱と苦労を抱えながら実績を積み重ね、やがて脚光をあびて成功するというイメージがあります。

 

二宮金次郎さんとか福沢諭吉さんとか。

 

しかし、清作は違っていました。

 

平気で人に借金をし、遊びほうけお金を返そうともしませんでした。

 

とんでもない人物です。

 

体の障害という事実から逃げるためか、いえきっと幼い頃からの貧乏で惨めな生活が嫌で嫌でたまらなかったからでしょう。

 

その反動から放蕩三昧を繰り返したのかもしれません。

 

だからといって人に迷惑をかけては人間としてどうかと思われます。

 

この頃英世の生活を支えるために紛糾したのは6歳年上の血脇守之助でした。

 

血脇はむしろ英世に上手く利用されたにもみえるほど、彼の経済的な力になっています。

 

そのおかげで、医術開業試験の予備校である済生学舎(現在の日本医科大学)へ通うことができたのです。

 

どうして血脇はこんな人物にお金の工面をしてあげていたのでしょう。

 

清作の中に眠る医学者としての才能を見抜いていたのでしょうか。

 

きっとそれだけではなく放蕩三昧であっても清作は明るく人に好かれる性格だったのではないかと考えます。

 

なんとかしてやりたくなる気持ちにさせる何かを持っていたのではないでしょうか。

 

1897年(明治30年)、臨床試験で必須の打診ができないため、これまた血脇の計らいによって左手の無償再手術を受け、打診ができるようになり後期の試験にも合格することができました。
21歳で医師免許を取得するのですが、開業医にはならず、学者として身を立てようと考えたのでした。

 

1898年(明治31年)当時血清療法の開発などで有名だった北里柴三郎が所長を勤める伝染病研究所(現 東京大学医科学研究所)に勤めます。ここでは、研究より語学の知識を買われ外人相手の通訳などをしていました。

 

この頃坪内逍遥の「当世書生気質」を読んで、清作から英世に改名しています。

 

この理由はまた別ページで紹介しています。

 

この本を読んだことのある人なら清作が改名しようとした気持ちがよくわかるでしょう。

 

アメリカ留学

 

1899年(明治32年)ペスト患者を診断し、アメリカ留学を希望しますが、身についてしまった放蕩癖のせいでその資金を持たず断念するしかありませんでした。

 

しかし医師を目指す女性と婚約し、その持参金をもってアメリカへ渡ります。

 

結婚する気もないのにお金目当てだったようで、ここまでいくと結婚詐欺みたいなものです。女性の私からみれば許せないやつです。このときも血脇が300円という大金を返済して縁談を破棄しています。そこまでしてやることないのに。

 

 

そんなひどいやつは罰を受けるどころか、ペンシルバニア大学で蛇毒の研究論文が認められ一躍アメリカの医学会にその名を知られるようになります。

 

1903年(明治36年)コペンハーゲンの血清研究所へ、翌年にはまたアメリカに戻っています。

 

1911年(明治44年)京都大学医学博士の称号を与えられ、その年アメリカの女性メリーダージスと結婚しました。

 

このときは本当に好きになったんでしょうね。

 

1914年(大正3年)東京大学より理学博士の位を得、ノーベル医学賞の候補者となります。

 

日本に帰国

 

翌年年老いた母シカに会うために15年ぶりに彼は日本へ帰国しました。

 

これが英世の最後の日本帰国でした。

 

遠い異国にいてもやはり母親は恋しいものだったのですかね。英世はこの年二度目のノーベル医学賞の候補となっています。

 

1918年(大正7年)レプトスピラ・イクテロイデス(病原体名)を発表し三度目のノーベル賞候補となりました。

 

その後、メキシコ、ペルー、アフリカ ガーナへと病原体を探して各国を巡りました。

 

1928年(昭和3年)英世自身が黄熱病にかかり、51歳でその人生を終えたのでした。

 

三度もノーベル賞候補に上がりながら、残念なことです。

 

自由奔放な生活をしながらも、医学の研究に没頭することができた幸せ者の医学者 野口英世は、アメリカのニューヨークにあるウッドローン墓地に葬られました。

 

きっと彼のことですから、あの世でも研究に明け暮れ、その合間に得意の囲碁でも打ちながら楽しくやっているのかもしれません。

 

学校では絶対教えてくれない偉人のお話でした。

 

 

 

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