1928年(昭和3年)日本の偉大なる医学者がこの世を去りました。
享年51歳、現在のわれわれからみればとても若い寿命であったといえるでしょう。
野口博士は1876年(明治9年)に福島県三ツ和村三城潟(現在の猪苗代町)に貧しい農家の長男として生まれました。
1歳の頃囲炉裏に落ち左手に大やけどを負い、そのハンデを克服しながら医学を学び、1900年(明治32年)23歳でアメリカへ渡り、多くの研究を論文で発表しアメリカのいえ、世界の医学界から注目を浴びました。
その博士がアフリカのアクラで研究中に黄熱病に罹り帰らぬ人となったのです。彼の訃報は世界中に知らされ、多くの人がその死を悼みました。
記念館設立へのきっかけ
亡くなるまでたくさんの賞を受けていた野口博士は、その死に際して日本からは勲二等に叙せられ旭日重光章を与えられました。
フランスでも防疫功労金牌を規定の階級を飛び越えて彼に授与しています。
追悼会が各地で始まり、アメリカはもちろんエクアドル政府は日本の外務大臣に丁重な弔意を打電しています。
本当に世界中の人に敬愛されていたことがよくわかります。それに博士がいかに偉大な人だったかも。
同じ日本人として嬉しく誇らしい思いがします。
日本では、野口博士の学友や東大医学部や伝染病研究所などが動き、東京の日本工業倶楽部で開かれた追悼式を機に、「野口英世博士記念会」の設立が決定しました。
記念会の事務局はアメリカへ野口博士の遺品をもらえないかと交渉しました。
すると妻のメリーからたくさんの遺品が贈られてきました。
彼女は野口博士を失った悲しみに捕らえられ、その遺品を手元に置くこともつらかったようです。
それに、愛する夫の遺品をふるさとへ送ることで、夫の魂だけでも帰国させてあげたかったのかもしれません。同じ女性としてメリーの悲しみが伝わってくる思いです。
記念会は博士の生家をそのまま残し、補修補強し記念館とするための建設に取り組みます。
野口博士の育った家の茶の間の柱には、「志を得ざれば再び此地を踏まず」と小刀で刻まれた博士の言葉が残っています。
二度と故郷の土は踏まない覚悟で彼はこの家をでて医学者の道へと進んだのでしょう。
また貧乏なこの家に帰りたくないという思いも混じっているような気がします。
それでも黄熱病で生死をさまよっているときに一度だけ看護師の腕を掴んだそうです。まるで幼い子供が何かに怯えて母親の手を掴むように。
その手は誰を求めていたのでしょう。
愛妻メリーだったのか、それとも懐かしいふるさとの母だったのでしょうか。
博士以外の誰にもわからないことです。
この文字は今も記念館に行けば、見ることができるそうです。
また野口博士が大やけどをしたという囲炉裏もそのまま残されています。
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記念館について
この記念館は、博士が幼少期に育ったままを保っている生家と、アメリカから贈られた博士の遺品の数々を展示する展示室、母であるシカが信仰していた観音様を奉った観音堂からできています。
それに野口英世の遺髪を治めた納めた「誕生地の碑」と彼が残した格言を刻んだ「忍耐の碑」の二つが保存されています。
1939年(昭和14年)ついに野口英世記念館が完成し、落成式と観音様の開眼供養が行われたのです。
1954年(昭和29年)には福島県第1号の登録博物館として認められます。
1966年(昭和41年)には東京新宿にも野口英世記念館が落成しています。
1978年(昭和53年)には記念館の新館が落成します。
記念会の活動は日本国内だけではありません。
1975年(昭和50年)メキシコのメリダのオーラン病院に野口英世生物医学研究センターが、1979年(昭和54年)にはガーナ大学基礎医学研究所(野口英世医学研究所)が開設します。
その後も1982年(昭和57年)にはペルー国立精神衛生医学研究所にオノリオデルガード・ヒデヨノグチ記念病院も設立されています。
いかに野口博士が世界に名前の知られた偉人であったことがうかがえますね。
平成27年リニューアルされた野口英世記念館には、ロボットの野口博士が私たちを出迎えてくれいろいろなことを教えてくれます。
野口博士の性格や生活ぶりををちょっと知っている私たちは、このロボットの博士を愛おしく感じてしまいます。
これからも記念館で愛嬌のたっぷりな博士が活躍しそうです。
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