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野口英世の母

さまざまな研究で医学者として功績をあげた野口英世ですが、その影で多くの人の愛が彼を支えていたのです。

 

父母はもちろん姉弟、そして妻や研究所の人たち、彼の学費を工面してくれた恩人、そんなたくさんの人たちのお陰で自由に研究に没頭することができ名誉ある賞までいただくことができたのです。

 

人は何か得意な面を持つと自分の努力の成果だと勘違いしがちですが、周りの人の協力や助けなしではそうはいかないと思います。そう野口英世もそうだったのです。

 

野口英世の両親と姉弟

 

英世の父は野口佐代助といい、嘉永4年(1851年)猪苗代町の小平潟というところで長男として生まれました。

 

彼の少年時代は戊辰戦争の真っ只中で、佐代助もその戦いの中に身をおきました。

 

会津全土を巻き込んだ戦いです。

 

白虎隊のような意気盛んな少年たちも命を散らしていることで有名ですね。

 

そのことがかなり佐代助にはこたえたようでこの頃から酒を飲むことをおぼえたそうです。

 

戦を知らない私たちからは想像もできない悲惨な状況だったのでしょうね。

 

酒といえば、佐代助の父親、つまり英世のおじいさんがかなりの酒好きで身上をつぶすほどだったようで、そのため長男でありながら、一人娘のシカの養子として野口家へ婿入りしたということです。
英世の酒好きもおじいちゃん譲りだったんですね。

 

母親のシカは嘉永6年(1853年)に猪苗代で生まれます。

 

シカの先祖はかなりお金持ちだったようですが段々と家は傾いていったようでシカの生まれたころには両親ともに出稼ぎに出るほど貧しかったようです。

 

シカも戊辰戦争を経験しています。

 

16歳の少女だったシカは敵陣へ乗り込み、村を助けてくれるよう懇願しています。

 

勇ましく強い女性だったようですね。

 

その上読み書きができなかったのでお寺の住職に頼み込んで手習いをしてもらったほどの努力家でもあります。

 

そして産婆としての試験を受け見事に資格を得たのです。

 

そんな佐代助とシカは1872年に結婚しました。

 

佐代助は大酒飲みでしたが郵便配達員としてまじめに働いていたといいます。

 

二人の間に、イヌ、清作(後の英世)、清三の三人(その他にも死産だった男の子と生後10日ほどで亡くなったイヌの双子の兄弟)の子供をもうけています。

 

姉のイヌは、明治7年に双子の一人として生まれました。

 

この年の干支が戌(いぬ)だったことからイヌと名づけられました。

 

長男の清作(英世)が左手が不自由なため農作業ができないことから家を継いでほしいと言われましたが、長男を差し置いてそんなことはできないと奉公するために家を出てしまいました。

 

姉として身体が不自由でも長男である清作を踏みつけるようでいやだったのでしょう。
(清作は身体のハンデは関係なく貧しい農家なんて継ぎたくなかったのですが)

 

清作は医者になり親孝行するから、姉のイヌに家を継いでほしいと何度も頼んだそうです。

 

イヌは明治27年に養子をもらい結婚し、長男 栄、次男 寅吉、三男 英栄、四男 英善、長女 雪の五人の子供に恵まれました。

 

清作の夢の実現のために家を継いで、一生懸命に働き、清作が医者になるために上京する時や、アメリカへ渡る際にはわずかながらに餞別も渡したそうです。

 

決して金銭的に余裕はなかったでしょうに、清作にとって姉というのはありがたい存在だったと思われます。

 

イヌは、英世がこの世を去った後追悼会にも出席、その後野口英世記念館の仕事にも携わり、昭和38年90歳の大往生を遂げました。

 

清作には11歳下の弟がいました。

 

明治20年に生まれたその子は清三と名づけられました。

 

清作は仕事で忙しい母や姉に代わって清三の面倒を親身になってしたそうです。

 

11歳も年下ですから可愛くてたまらなかったのでしょう。

 

清三は20歳で入隊し、2年後除隊、明治44年に北海道へわたり結婚しました。

 

当時家族が5人いると5町歩の農地を与えられたので、佐代助夫婦も北海道へ渡ったそうです。

 

大正4年に清作(英世)が帰国する際にはケガをして、清三は英世に会うことができませんでした。

 

幼い自分を背負って勉強していた兄に一目でも会いたかったでしょう。

 

清三は昭和18年、長男の住む大阪でこの世を去りました。

 

56歳でした。

 

愛しい妻メージー

 

両親同様に英世を愛し、また最も英世の心の支えになったのは妻のメリー・ロレッタ・ダージスだったでしょう。

 

彼女は1876年アメリカのペンシルバニア州スクラントンで生を受けます。

 

ニューヨークの酒場で英世と出会い1911年結婚しました。

 

お酒や遊びが好きな英世も越えるほど大酒飲みで、けんかしたときには英世をぶっ飛ばしたといわれています。

 

それでもメージーは英世を献身的に支え、自宅で研究に没頭している夫を黙ってみていたそうです。

 

今の人は仕事を家に持ち込むことを良しとしませんよね。

 

ヒデとメージーの間にはそんなことは関係なかったのですね。

 

一緒にいればお互い幸せだったのでしょう。

 

アクラで英世はメージーに宛てて何通も電報を送っています。

 

早く帰って会いたい、もうすぐ帰るよとラブレターのように書いています。

 

子供のいなかった二人は姉の長男を養子にしました。

 

英世の死後もメージーは姉のイヌに仕送りを欠かさなかったそうです。

 

また英世の記念館に彼の遺品をたくさん送りました。

 

彼の死がつらすぎて、遺品をみるのもいたたまれなかったのかもしれません。

 

早くヒデのもとへ行きたいと言っていたようです。

 

本当に英世は愛されていたのですね。

 

彼を支えたたくさんの人々

 

英世を支えたのは肉親ばかりではありません。

 

彼が学問に打ち込むきっかけとなった恩師の小林栄氏、医師になろうという意思をはっきり持たせてくれた血脇守之助氏。

 

二人とも恩師でありながら英世にお金の苦労をさせられた人たちでもあります。

 

それほど英世の才能と性格を愛していてくれた人たちなのでしょう。

 

そのほかにもアメリカへ渡るきっかけとなったサイモン・フレクスナー氏、アメリカのロックフェラー研究所の研究者たちと英世の周りには彼を信じ、支え、愛してくれる人でいっぱいでした。

 

誇り高き医学者野口英世は、たくさんの人に愛されて生きていた幸せ者であったことは間違いありません。

 

当の本人は自分の研究と遊びに夢中で、気がついていなかったのかもしれませんが。

 

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